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ひとつの仕事に特化した専門知識や技能を、「テクニカルスキル」と呼ぶのに対し、会社の業種や仕事の内容、まわりの環境などが変わってしまっても対応できる能力だから、ポータブルスキルと呼ぶのである。
勤務先の会社が変わったり、職務や役割が変わっても、同じ経営メンバーという立ち位置であれば、そこから見える視界は同じで、自分自身で培ったある種のフレームによってものごとを判断することができれば、専門知識は必要ない。
プロフェッショナルな経営メンバーであれば、どんな業種の会社に行っても、同じように経営メンバーとしての能力を発揮できるのである。
実際、経営メンバーは転職によって、さまざまな業界を渡り歩くことが少なくない。
たとえば金融機関の執行役員をしていた経営メンバーが、ヘッドハンティングによって農業系の企業の役員に就くこともある。
もちろん彼は農業のことはまったく知らないが、経営メンバーに期待されているのは農業に関する専門知識ではない。
作物の出来不出来の見分け方や、どんな肥料がどの野菜に有効か、今年の天候の見極めといったスキルは、経営メンバーには求められていない。
彼らに期待されているのは、農業というビジネスをどうマネジメントするかという事業遂行能力だ。
そうしたマネジメント能力を具現化するうえでは、農業の専門知識は不要だし、農業経験を積む必要もない。
自分自身で培ってきた経営に対するフレームワークや考え方を持っていれば、農業だけではなく、製造業やサービス業に就いた場合でも、じゅうぶんに能力を発揮することができるのである。
私自身も、Rというひとつの企業で働きながら、しかし事業内容についてはさまざな分野を渡り歩いてきた。
雑誌ビジネスからインターネットビジネス、人材紹介まで、その折々に異なるビジネスモデルを経験しながら、しかし事業のトップに立つという意味では同じポジション、同じ立場で仕事をしてきた。
そうやってきまざまな分野を横断して気づかされたのは、やはり、「実務経験は必要とも限らない」ということだった。
たとえば人材紹介ビジネスを考えてみると、求職者への面接のテクニックや会社面接会などのイベントをセッティングするやり方を知っているよりは、人材紹介というビジネスで儲ける仕組みはいったいどうなっているのか、そして現在の問題点や課題はどこに潜んでいるのか、あるいはどこをどう押さえれば人材ビジネスを伸ばすことができるのかといったことを指摘できるスキルの方が、ずっと重要だった。
そしてそうしたスキルは人材紹介の仕事を続ければ得られるのではなく、私が雑誌やインターネットなど他の分野の事業でトップに立って仕事をしてきた経験の中から培われていったものだったのである。
経営メンバーがさまざまな業種を渡り歩くというのは、いまでは日本の産業界でも当たり前になりつつある。
わかりやすい例を挙げれば、K社長のK氏もそんなひとりだろう。
Kはご存じのように、経営状態が悪化し、二OO四年春に産業再生機構の支援を仰いだ。
主力の化粧品事業を別会社として分離し、同社発祥のもととなった繊維事業も大幅縮小するなどの再建策がとられたうえで、産業再生機構は最終的な総仕上げとしてK社長を送り込んだのである。
K社長は、化粧品とはまったく無縁の人物で、もともとは通産省(現経済産業省)の官僚だった。
三十代で通産省を退職してレンタルビデオのツタヤを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブに移籍し、取締役や常務を歴任した。
そして二OO四年七月に産業再生機構に入社し、マネ−ジングディレクターを務めていたのである。
当初はKの社外取締役に就任していたが、N前社長がその力量を見込み、社長への就任を産業再生機構に要望。
同年十一月に社長就任が決まった。
N前社長がK氏を推薦した理由について、日本経済新聞(二OO四年十一月二日付朝刊)は、こんなふうに解説している。
「株主利益を最大化するには顧客に良質の商品やサービスを提供することが不可欠。
社員を大事にしなければそれは不可能」。
九月中旬に産業再生機構からカネボウのアドバイザーに就いた時の言葉が、N前社長の心をつかんだ。
K氏はもちろん化粧品事業のことはまったく知らなかったが、彼の「人材を大切にする」という考え方が、前経営陣に高く買われたのである。
K氏だったらその考え方に基づいて、事業を立て直すことができるだろうと、旧経営陣は判断したわけである。
こうしたカネボウのような事業立て直しのことを、「タ−ン・アラウンド」と呼ぶ。
経営難に陥った企業を業績低迷から脱却させ、再び成長軌道に乗せることを意味している。
日本にはこれまでタ−ン・アラウンドを実現できる「会社再建人」のような人材はほとんど存在しなかったが、ここに来てそうした能力やスキルに対して急激に注目が集まるようになっている。
私の知っている範囲でも、たとえば金融機関で働いていた人材が、食料品メーカーの立て直しのために経営メンバーとして入社したり、また外資系のコンピューターメーカーで営業部隊にいた人が、まったく関係のない音響メーカーに経営企画担当執行役員として入社したケ−スなどがある。
この二人とも、工場のラインに入った経験などはもちろんなく、製造業の現場の知識もあまり持っていない。
だが実務がわからなくても、「この人なら、自分自身で課題を見つけて改善し、そして新たな事業を遂行する能力を持っているはすだ」と白羽の矢を立てられたわけである。
専門知識が逆にジャマをすることもあるこれまで、経営メンバーになるためには現場の実務経験や専門知識がいかに不要であるかということを説明してきた。
さらに論を進めれば、逆に専門知識が経営メンバーとしての仕事をジャマすることさえある、ということを話しておこう。
たとえば、私が以前知り合った飲食ビジネス大手の上場企業役員。
彼はもともと叩き上げで、現場のレストランでシェフを務めた経験を持っていた。
競争の激しい飲食店ビジネスは、客の求める美味しい料理を素早く作り、あらゆる場面で客の満足度を上げていかなければならない。
だから現場に対しては、「この料理は三分以内に調理を行い、すぐに客に提供できるようにしろ」といった無理難題がひっきりなしに持ち込まれ、現場は必死の努力でこうした経営サイドからの要求に応えていかなければならない。
中には、相当に無理な要求もある。
どんなにシェフが必死で腕をふるっても、どうしても三分以内には料理を作れそうもない場合だつである。
とはいえ経営というのは非情なもので、時にはそうした現場の声を無視してでも、思い切った命令をくださなければならないこともある。
しかし私の知り合いのこの役員は、シェフの経験があっただけに、そうした現場の苦労を痛いほどよく知っていた。
だから、経営メンバーとして無理難題を現場に言いにくい立場になってしまったのである。
だってそうではないか。
シェフの経験を思い出せば、「この料理は三分以内に」というのがいかに無理な要求かがわかってしまう。
おまけに現場から、「あなただってシェフの経験があるんだから、じゃあ三分以内に実地にやってみてくださいよ」と切り替えされてしまう可能性だってあるわけだ。
だから彼は、ほとほと困ってしまったのである。
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